麻から木綿への変化

戦国時代に木綿が日本に入りますが,最初のうちは庶民には普及しませんでした.
苧麻・絹・木綿の社会史(永原慶二著 吉川弘文館)によりますと,戦国から江戸時代初期に生きた女性おあむが若いときは麻(苧麻や大麻)の帷子を1つしかもっていなかったのに,最近の若い者は木綿の服をいくつももってぜいたくになったと嘆いているとあります.

苧麻は1反(成人の着物1着をつくるのに必要な布の量)織るのに40日くらいかかるのに対し,木綿ではおそらくその10分の1くらいですむことも「苧麻・絹・木綿の社会史」には書いてあり,ワタの栽培が日本で始まり,衣料に木綿が普及するようになるとその作業量の少なさから急速に庶民にも普及したようです.

ただし東北地方とくに米のあまりとれない農村では明治時代になるまで麻(この場合大麻)の服がほとんどであり,麻を女性がいつも績まなければならない厳しい生活があったようです.
 稗と麻の哀史 高橋九一著 翠楊社から

作物としてのワタはかならずしも日本の気候に適したものではなかったのですが,それまでの日本にあった衣類向けの繊維である苧麻,大麻に比べて,繊維の質がよく,収穫後の加工も容易でした.木綿の服は藍染めと相性がよく,藍の栽培も木綿の普及にともない拡大していきます.さらに都市では夜も起きて生活するようになっていましたが,農村でも夜に仕事をするようになり,菜種油の必要性が増し,ナタネの栽培も増えます.ナタネは冬作物でしたので,稲やワタと競合することもなかったので好都合でした.このようにワタ,アイ,ナタネという工芸作物は農業だけでなく,農産加工,流通を通して,日本の社会を大きく変えていきます.その主役が木綿ということになるでしょう.

木綿の利点は柳田国男の「木綿以前の事」によると肌ざわりのよさといろいろに染められることにありました.戦国時代には武具(火縄銃の火縄にもなりました)の材料としても重要となり,急速に栽培が拡がったようです.江戸時代になると畿内の農家にはワタ栽培を中心に行うものも出てきています.自給自足的な農村からあきらかに大きく変貌し始めていたということになります.

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ワタは畑だけでなく,水田にも植えられるようになります.水田に畝を立て,ワタを畝に,稲を溝に植える半田(はんだ)という方式も現れます.ワタは畑作物ですが,水もけっこう必要としますから合理的な方法のように思います.

ワタは水が多く必要なだけでなく,肥料も多量に必要とします.植物繊維は基本的に光合成産物を由来とするセルロースからなるので,光合成量が多いほど多くなるので,窒素を中心として肥料を多く与えると多く生産できます.しかし,大麻,苧麻は茎の植物繊維を収穫するので,窒素施肥を増やしても相対的に葉が増えるだけですし,倒れやすくなって,茎の繊維の質が悪くなるでしょうから施肥はそれほど多くはできないでしょう.ワタは種子毛を収穫するので,施肥を増やして収量がよく反応して増えます.そのため干鰯など金を払って肥料を購入し,ワタを栽培するようになります.

山野草を刈り,水田に敷く刈敷あるいは下肥などの自給的な肥料から購入する肥料への転換は日本の農業の近代化をいろいろな面で進めることになります.例えば肥料を購入するわけですから,経営の観念が生まれます.いくらワタの収穫が増えても肥料代の方が高くつけば収入は減ります.肥料を効果的に施用するために施肥の仕方も工夫されます.施肥を分けて与える分施技術もすでに江戸時代に生まれています.除草,中耕など集約的な管理をワタの栽培は要求します.したがって,労働力を効率よく割り当てる必要も生まれます.いくら広い畑があったとしても労働力が不足してワタの周到な栽培ができないのでは収益をあげられないからです.

さらにワタは周到な栽培を要求しますが,うまく栽培すれば高い収益を約束したので,農家が勤勉になりました.それまでの日本はいくら働いてもその働きに応じて収入が増えるわけでもなかったのでしょうが,ワタなどの工芸作物を中心とした商品作物(それに養蚕)は努力がそれなりに報われる点があったのでしょう.一方,農繁期には勤勉に忙しく働き,農閑期には祭りや神社仏閣へ参り,旅を楽しむようになります.現在,日本の各地に残るさまざまな伝統行事,文化もこのような農村の豊かさをもとに生まれたように思います.

個人的な思いこみを述べますと,コンピューターの発達によって現代社会では,江戸時代の農民のように働けば豊かになるという希望をもった積極的な勤勉であるというより働かないと落伍してしまうから無理矢理勤勉にさせられるというような感じです.

そして,ワタは製品である着物になるまで,さまざまな加工を経ます.江戸時代には村々にも紺屋が存在しました.大麻しか栽培できなかった岩手の山村にも紺屋が明治時代にはあったそうです(稗と麻の哀史:前掲書による).農産加工は農家を豊かにするだけでなく,明治時代になると日本がすみやかに西欧の工業を受け入れる土台を築いたように思います.

江戸時代の後半になると,ワタの栽培の中心が畿内(奈良,大阪など)から東海,関東,山陽,山陰に移り始めます.ワタの栽培が全国に拡がった結果,ワタの価格は低下し,一方,肥料の需要が拡大して肥料の価格は高騰します.山陰のワタ栽培は高価な肥料である干鰯を少なくして,代わりに中海や隠岐,山陰海岸に豊富な海藻を肥料にしました.安価な肥料によって山陰のワタ栽培は明治時代に発達しました.しかし,日本で栽培できるワタでは繊維が太くて短い綿花しかとれなかったために,新型の紡績機械が登場すると不適当となりました.結局,外国産綿花の関税が最終的には撤廃され,日本のワタ栽培はここで事実上終焉することになります.

余談ながら,明治後半に島根県ではワタ栽培が後退し,ワタ栽培に利用された海藻も肥料として利用されなくなります.海藻は沿岸の人々に現金収入を与えていました.さらに島根県はたたら製鉄が盛んでしたが,近代的な製鉄が日本にも導入され,たたら製鉄も衰えます.明治後半から大正時代になると島根県の経済的な後退は著しくなるそうですが,その一因にワタ栽培の衰退もあるのかもしれません(経済史はよく知りませんが).

このページの参考図書は以下の通りです.
苧麻・絹・木綿の社会史 永原慶二 吉川弘文館
貧農史観を見直す 佐藤常雄+大石慎三郎 講談社現代新書
稗と麻の哀史: 高橋九一 翠楊社
明治農書全集 第五巻特用作物 農山漁村文化協会